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神話1 『ヨハネのアポクリュフォン』
『ナグ・ハマディ文書』より
■1. 否定神学

 世界の始源には、至高神だけが存在する。至高神はあらゆる事物に先立つ絶対的な始源であり、絶対的な超越者である。それを限定的な、あるいは実定的な属性によって形容することは不可能であり、ゆえに「否定神学」的な叙述方法が導入される。『ヨハネのアポクリュフォン』によれば至高神とは、見えざる霊、不滅性の中に在る者、いかなる視力でも見つめることのできない純粋なる光の中に在る者、欠乏を知らない者、あらゆる者に先立つ者、断定し難い者、記述し難い者、身体的でも非身体的でもない者、大きくも小さくもない者、等々・・・である。

■2. 至高神の分身=「最初の人間」であるバルベーローの発出

 至高神は「霊の泉」に映る自己の姿を注視することによって、最初の思考であり、自己の鏡像=似像である「バルベーロー」を発出する。至高神自身が非限定的で不可視の存在であるのに対し、その似像であるバルベーローは限定と形相を有する。バルベーローとは、至高神が自己観照によって生み出す最初の理念、最初の「アイオーン(永劫性)」なのである。その光景は以下のように描かれている。

霊の泉が、光の活ける水から流れ出た。そして彼は、全てのアイオーンとあらゆる世界を準備した。彼は自分を取り巻く純粋なる光の水の中に彼自身の像を見ることにより、それを把握した。すると彼の「思考(エンノイア)」が活発になって現れ出た。[······]これがすなわち万物の完全なる「プロノイア(予見)」、光、光の似像、見えざる者の影像である。それは完全なる力、バルベーロー、栄光の完全なるアイオーンである。彼女は彼を誉め讃えた。彼女は彼によって現れたからである。そして彼女は彼を思考する。彼女は最初の「思考」、彼の映像である。彼女は最初の人間となったのである。

■3. プレーローマ界の創造

 こうして誕生したバルベーローは、至高神の承認を得ることにより、「第一の認識」を始めとする種々のアイオーンを次々に発出する。このようなバルベーローの働きを通して、神的な完全性に満たされた世界、「プレーローマ(充溢)」界が創造されるのである。各アイオーンは「不滅性」「真理」「叡知」「言葉」「賢明」「愛」等という実定的属性を指示する名が与えられている。それらは、プラトン哲学の概念でいう「イデア」に相当する、完全で永遠なる存在者なのである。それぞれのアイオーンは、男女の「対(シュジュギア)」を構成するものとして配置されている。

■4. ソフィアの過失

 プレーローマ界を構成する上述の神々の中で、「ソフィア(知恵)」と呼ばれるアイオーンは、その世界の最下層に位置する女性の神格であった。ソフィアは、自らもまた至高神の似像性を有する一つのアイオーンであるという理由によって、至高神と同じように自分自身の影像を発出したいと願う。

さて、われわれの仲間なる姉妹、すなわち「知恵」は──彼女(もまた)一つのアイオーンであったので──自分の内からある考えを抱くに至った。彼女は霊の考えと「第一の認識」によって自分の中から自分の影像を出現させたいと欲した。彼女のこの考えは無為のままではいなかった。そして彼女の業が不完全な形で現れ出た。その外貌には形がなかった。というのも、彼女は彼女の伴侶なしに(それを)造り出したからである。それには母親の姿に似た形がなかった。

至高神や他の神々の同意と承認を得ずに行われたその行為は、ソフィアの身に大きな悲劇をもたらす。彼女が流産したものは神的存在者にそぐわないその奇怪な姿を露わにし、蛇とライオンの外貌を呈したのである。ソフィアは自らが生み出したその存在を他のアイオーンたちに見られることを恐れ、これをプレーローマ界の外部に投げ捨てる。そして彼に玉座を与え、「ヤルダバオート」と名づけた。

■5.可視的世界の創造

 プレーローマ界から放逐されたヤルダバオートは、自らの出生の由来を知ることのないまま、自らの住まう世界、すなわち可視的世界の創造に着手する。最初に創造されるのは、恒星天や惑星天の星々と同一視される「アルコーン(支配者)」たちである。ヤルダバオートはソフィアから継承していた力の働きによって、無知の裡にプレーローマ界の似像としての可視的世界を創造する。

さて、彼はこれらすべてのものを、すでに成立している第一のアイオーンの像に従って、整えた。それは彼らを不朽の型に倣って造り出すためであった。彼が不朽なる者たちを見たからではなく、むしろ彼の中に在る力──それは彼が彼の母親から受け取っていたものである──が彼の中に美しき秩序の像を生み出したからである。

 ヤルダバオートは、旧約聖書の造物主ヤハウェと同一視されている。ヤルダバオートは世界の創造が自らの力のみによって為されたと過信し、アルコーンたちに自己の唯一性を宣言する。「私こそは妬む神である。私の他に神はない」。

■6.人間の創造

 無知と傲慢に満ちたヤルダバオートの言葉に対し、プレーローマ界の創造者であるバルベーローは「人間と人間の子が存在する」と答えて反駁すると同時に、自らの形象を可視的世界の水面に現出させる。ヤルダバオートとアルコーンたちは、水の中に映ったバルベーローの影像を目にして驚愕する。彼らは、「われわれは神の像と外見に従って人間を造ろう。彼の像がわれわれにとって光となるために」と語りあい、バルベーローの立像を模することによって人間の(心魂的)身体を創造する。

 こうして造り上げられた最初の人間は、「アダム」と名づけられる。しかし彼は徒に地面を這うばかりで、立ち上がることができない。これを見たプレーローマ界の諸力は、ヤルダバオートに対し、ソフィアに由来する力であるその霊=息(プネウマ)をアダムに吹き込むようにそそのかす。それは、ヤルダバオートが不当にも保持しているその霊力を奪還するための計画を意味するのである。ヤルダバオートから息を吹き込まれたアダムは力を得て立ち上がるが、ヤルダバオートはそれを喪失する。さらに、霊の力を得て光り輝き始めたアダムを目にして、アルコーンたちは激しい嫉妬の感情に駆られ、彼を物質世界の底部にある「エデンの園」に幽閉する。

■7.「生命の霊」と「模倣の霊」の対立

 『ヨハネのアポクリュフォン』における以下の物語では、エデンの園に続く『創世記』の幾つかの場面が、これまでに描かれたその二元的世界観を背景に解釈される。その記述は幾分断片的であり、しばしば物語の筋道が前後しているが、そこではプレーローマ界が人間を救済するために派遣する「生命の霊」と、可視的世界の支配者がその姿を模して生み出す「模倣の霊」の対抗関係が、物語構成の基軸的な役割を果たしている。

 バルベーローは、エデンの園に幽閉されたアダムと彼に吹き込まれた霊の存在を憐れみ、これに救助者を差し向ける。それは「善なる、憐れみに富む霊」であり、「光のエピノイア」、あるいは「ゾーエー(生命)」や「生命の霊」と呼ばれる。ヤルダバオートはアダムを眠らせ、彼のもとに到来した「生命の霊」を抜き取ることにより、自らが失った力を回復しようとする。しかし「生命の霊」はその手から逃れてアダムから離れたため、ヤルダバオートは「生命の霊」を捕縛するために、その姿を模することによって、物質的な「つくり物」である女性の身体を造り出す。「生命の霊」はこの身体に降り立ち、ゆえに彼女は「生命」=エヴァと称されるようになるのである。

 アダムの側に立っている若い女の姿を目にして、ヤルダバオートの心は「愚かな思い」、すなわち性欲によって満たされる。ヤルダバオートは彼女を凌辱するが、その企みを事前に察知したプロノイアによって彼女からはすでに生命が抜き取られていたため、彼はエヴァの肉体のみと交わったのであり、それによって新たな「肉体の像」、カインとアベルが生み出される。そしてアルコーンたちは彼らに、「生命の霊」を模倣して造り上げた「忌むべき霊」、「模倣の霊」を分与する。彼らは「暗闇の無知」、「身体のこしらえ物の洞窟」と呼ばれる物質的身体の持ち主であり、さらには彼らを支配する「模倣の霊」が常に激しい性欲を惹起するので、悪しき交接に絶え間なく駆り立てられ、洞窟内の映像に等しいその幻影的な肉体を徒に増殖させ続けるのである。こうして地に満ちた者たちは、カインとアベルの種族と呼ばれる。これに対し、バルベーローによって最初に産み出されたアイオーンである「第一の認識」の模像をアダムがを知解することによって、セツが誕生する。セツの子孫たちは、プレーローマ界に存在する原型の忠実な模倣によって誕生した、祝福されるべき種族である。

■8.終末

 人間に求められるのは、「模倣の霊」による支配と影響から離れ、「生命の霊」による教導に従って生きることである。世界の終極においては、プレーローマ界の創造者であるプロノイア=バルベーローが到来し、可視的世界の闇を照明することによって、ヤルダバオートたちが作り上げた宿命の鎖を粉砕するとされている。
[出典]『ナグ・ハマディ文書Ⅰ 救済神話』
荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳、岩波書店、1997年