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神話14 『フローラへの手紙』
エピファニオス『薬籠』より
A.プロローグ

論題の困難さ
3.1 親愛なる姉妹のフローラよ、モーセによって書き記された律法は、これまでに多くの人々によって誤って理解されてきた。というのは、彼らはそれを書き記した人物、およびそれらの戒律について、あまり深く知らなかったからである。わたしは、あなたがこの論題についての彼らの一致しない諸見解を学んでみれば、すぐにこのことを理解するだろうと思う。

論題についての誤った諸見解
3.2 というのは、ある人々はこの律法が父なる神によって制定されたと言っているからである。その一方でまた別の人々は、正反対の道行きに従って、その敵なる有害な悪魔によって制定されたと主張している。そして後者の宗派は、世界の創造者を悪なる者とし、彼は「宇宙の父であり創造主である(1)」と言っている。3.3 しかし彼らはまったく誤っており、互いに一致せず、それぞれの宗派は物事の真実を完全に見逃しているのである。

律法は完全なる神によって制定されたのではない
3.4 さて、律法が完全な神であり父である者によって制定されたとは思われない。なぜなら、律法はその授与者と同じ性質を持つはずだからである。しかしながら律法は不完全であり、別のものによって補完される必要がある。律法には、そのような神の性質と意図には釣り合わない、さまざまな戒律が含まれている。

悪魔によって制定されたのでもない
3.5 他方、不義を廃する律法を敵対者の不義によるものとするのも、救い主が語った原理を理解していない人々の、誤った論理である。というのもわれわれの救い主は、内部で分かれあう家や町はたちゆかない(2)、と告げたからである。3.6 そしてさらに使徒は、そのような嘘つきたちの浅知恵を予測して、世界の創造は救い主によるものであり、「万物は彼によってなった、なったもののうち彼によらないものはなかった(3)」と言っている。そして創造とは、義であり、かつ悪を憎む神によって行われたのであり、これらの思慮のない人々が信じているような有害な神によって行われたのではない。彼らは創造者の予見について注意を払っておらず、魂の目において盲目であるばかりか、肉体の目においても盲目である。

論題
3.7 さて、これまでに述べてきたことから、これらの(思想を持つ諸宗派)は完全に真理を見逃しているということが明らかになったことだろう。それぞれの宗派は独自のやり方で困難に陥っている。ある(宗派)は義なる神に通じておらず、また別の(宗派)は、(子)のみによって知られ、(子)の到来によって告げ知らされた、万物の父に通じていないのである(4)。3.8 その両方の神について通じるように運命づけられているわれわれにとっては、まさにどのような種類の律法が律法なのか、そしてどの立法者がそれを制定したのかということを、あなたに示す必要がある。われわれは、われわれの救い主の言葉から引用することによって、われわれが言及することへの証拠を示すだろう。そのことによってのみ、つまずかずに物事の真の理解へと到達することができるのである。

B.解明:律法の本質

1.律法の三分割

律法の複数の著者
4.1 さて、あなたがまず最初に全体として学ばなければならないことは、モーセ五書に記されている律法とは単一の著者によって制定されたものではなく、唯一なる神によって制定されたものではないということである。むしろ、人間によって制定された一定数の戒律が存在する。実にわれわれの救い主の言葉は、モーセ五書は三つに分割されるということをわれわれに示しているのである。4.2 というのは、その一部分は神自身とその律法に属している。他方、もう一つの部分は、モーセに属するものである。実にモーセは、神が彼を通して定めたものとしてではなく、むしろ物事についての彼自身の考えに基づいてさまざまな戒律を定めた。そして第三の部分は長老たちに属するものであり、彼らもまた彼ら自身のさまざまな戒律を挿入したに違いない。4.3 あなたは、このことすべてが救い主の言葉から示されうるのを学ぶことになるだろう。

モーセの律法から神の律法を区別すること
4.4 救い主が離婚について議論している人々と語っていたとき――(律法においては)離婚は許されると定められていたのだが――、彼は彼らに言った、「あなたたちの心がかたくななので、モーセは妻を離縁することを許したのである。しかし、初めからそうではなかった(5)」。彼が言うには、神はこの結びつきを一体のものとしたのであり、「主が一体としたものを、人が離してはならない(6)」からである。4.5 彼はここで、神の律法は一つであり、女性がその夫から離されるのを禁じているということを示している。しかしモーセの律法はそれとは異なるものであり、心のかたくなさのために夫婦が離婚することが許されている。4.6 したがって、離婚することが離婚してはならないことに対立するように、モーセは神の律法に逆らって律法している。
 しかし、もしわれわれがまた、モーセがこのような戒律を制定した意図を吟味するなら、われわれは彼が彼自身の性向のゆえにではなくて、制定の対象となる人々の弱さのゆえにその戒律が作り出された、ということを見いだすことになる。4.7 というのは、そのような人々は、妻を離縁してはならないということに関して神の意図を実践することができなかったからである。彼らの内の何人かはその妻と非常に悪い関係にあったのであり、いっそうの不義へと逸脱し、そこから身の破滅へと向かってしまう危険があった。4.8 モーセは、彼らが破滅する恐れのあるこの不愉快な要因を排除しようとして、彼らのために自分の意志で第二の律法を制定したのである。離婚に関する律法は、二つの不義のうちのより悪い方を選択するという状況下において、いわば4.9 もし彼らが前者(すなわち神の律法)を選択することができないならば、彼らが完全なる破滅に至る不義と悪の道へと逸脱することのないように、少なくとも後者を維持するように、ということなのである。4.10 これらがモーセの意図であり、われわれはそれによって彼の律法の制定が神のそれと対立するということを見いだす。とにかく、たとえさしあたりただ一つしか証拠が挙げられないにしても、われわれが示したように、この律法がモーセ自身のものであり、神の律法からは区別されるものであるということは、疑いえないことである。

長老たちの伝統的な律法
4.11 そして救い主はまた、律法のなかに長老たちの伝統のいくつかが混じり込んでいることを示している。彼は言う、「なぜなら、神は言われた。『父と母を敬え、あなたにとって良いものとなるように(7)。』4.12 しかしあなたたちは言っている」、と救い主は長老たちを引用して言う、「『あなたにさしあげるはずのこのものは神への供え物です。』こうしてあなたたちは長老たちの伝統によって神の律法を無にしたのである(8)」。4.13 そしてイザヤは、次のように言ってこのことを示した。「この民はその唇によってわたしを讃えるが、その心はわたしから離れている。彼らは人間たちの戒めによって、わたしを無駄に崇拝しているのである(9)」。
4.14 したがって、これらの文句から、全体として、律法は三つの部分に分割されるということが明らかに示された。というのは、われわれはそこにモーセ自身に属する律法、長老たちに属する律法、神自身に属する律法を見いだしたからである。さらに、全体としての律法の分割は、わたしがここで行なって見せたように、どの部分が真なるものかということを明らかにした。

2.神自身の律法の、三つの下位区分

5.1 さて、神自身の律法をなす箇所は、さらに三つの下位区分へと分割される。

下位区分の性質:(1)純粋ではあるが不完全なもの
 最初の下位区分は、悪の混じり込んでいない純粋な律法である。それのみが正しく律法と呼ばれるものであり、救い主はそれを廃するためにではなく完成させるために到来した(10)。というのは、彼が完成させたものは彼と無関係にあるのではなく、完全ではなかったために、満たされることが必要な状態にあったからである。

(2)不義が混じり込んでいるもの
 そして、第二の下位区分は、劣ったものと不義なるものが混じり込んだ部分である。救い主はそれを、彼自身の性質には釣り合わないものとして廃した。

(3)予型論的なもの
5.2 最後に、第三の下位区分は予型論的かつ寓意的な部分である。それは超越的で霊的な事物に似せて作られている。救い主はこの部分(の指示物)を、知覚できる可視的なレベルから、霊的で不可視のレベルへと変化させた。

(1)十戒は純粋だが完全ではない
5.3 最初に、純粋であり劣ったものが混じり込んでいない神の律法とは、二つの石版に刻み込まれた十戒である。それらは、避けるべき物事の禁止と、行うべき物事の命令に分かれている。それらは純粋な律法を含んではいるが、完全なものではなく、救い主によって完成させられる必要があった。

(2)復讐法には不義が混じり込んでいる
5.4 不義が混じり込んでいる第二のものは、目には目を、歯には歯を、殺人には殺人を、という、すでに過ちを犯した者への復讐や仕返しに当たるものである(11)。この部分には不義が混じり込んでいる。なぜなら、二番目に不義を働く者はなお不義を働いているからであり、彼がそれを行う相関的な命令においてのみ異なっているにすぎず、まさに同じ行為を犯しているからである。5.5 しかし他の点では、この命令は過去においても現在においても義なるものであり、律法を命じられた人々の弱さのゆえに、純粋な律法から逸脱するものとして制定された。しかしそれは、万物の父の本性と善性には不釣り合いである。5.6 それはおそらく適切なものなのであるが、むしろそれは必要性の結果であった。その理由は次の通りである。ある者が――「汝、殺すなかれ(12)」という格言によって――一回の殺人も犯したくないと望んでいるとしよう。そのとき彼が第二の律法を行使して、殺人者に殺されるように命じるとするならば、彼は二度の殺人の審判者として働くことになる。一度の殺人さえ禁じた人物は、そうとは自覚せずに必要性によって欺かれたのである。
5.7 このような理由によって、父に由来する子は律法のこの部分を廃した。彼はそれもまた神の律法であったことを認めたけれども。この部分は古い思想の宗派に属するとみなされており、彼の言葉には「神は言われた、『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』」とある(13)。

(3)儀礼的律法は予型論的なものとなった
5.8 そして、神の律法の第三の下位区分は、予型論的部分である。この部分は、超越的、霊的領域の表象に似せられている。わたしが意味しているのは、供犠、割礼、安息日、断食、過ぎ越し、パン種のないパン祭、などについてである。
5.9 これらのすべては表象や寓意であったので、ひとたび真理が明らかにされると、それらすべての指示物は変更された。表面的かつ肉的な慣例は廃された。しかし、さまざまな名称は同じだがその対象が変えられることによって、それらの霊的意味は高められたのである。5.10 というのは、救い主はわれわれに犠牲を捧げることを命じているが、口のきけない動物たちを犠牲にすることや香料の使用を禁じているからである。むしろ、霊的な賛美、賞賛、感謝の祈り、分け与えの形式をとった捧げもの、善き行いが求められている。5.11 そして彼は、われわれが割礼を行うことを望んでいるが、それは肉体的包皮の割礼ではなく、霊的心の割礼である。5.12 彼は安息日を守ることを望んでいる。なぜなら、彼はわれわれに、邪悪な行いをして欲しくないと考えているからである。5.13 そして断食に関しては、彼はわれわれが肉体的断食を行うことを望んでいるのではなく、むしろすべての悪しき行いから遠ざかるという霊的なそれを望んでいる。

断食の正当化
それにもかかわらず、可視的な領域での断食はわれわれの信者たちによって遵守されている。その理由は、他の人々の真似や慣習、もしくは特定の日のために規定されているということのために行われるのではなく、理性をもって行われるならば、断食は魂に何らかのものを寄与しうるからである。5.14 同様にそれは、真の断食を想起させるものとして役に立つ。真の断食を遵守することがまだできない人々は、可視的な領域の断食からそれを想起するであろうから。5.15 使徒パウロは、過ぎ越しやパン種のないパン祭がさまざまな表象であったということを次のように言って明らかにしている。「われわれの過ぎ越しの子羊なるキリストは、すでに屠られた(14)。」そして彼は、パン種なしに、パン種に交わることなしに、と言う。いまや彼はパン種によって邪悪さを意味しているのであり、「混じりけのないパン生地」になるべきなのである。

要約:(1)純粋だが不完全であるものは満たされた
6.1 そのようなわけで、神の律法が三つの部分に区別されているということが認めうるものとなった。第一の下位区分は、救い主によって完全なものとされた。というのは、「汝殺すなかれ」「汝姦淫するなかれ」「汝偽証するなかれ」は、怒るなかれ(15)、情欲を抱いて他人を見るなかれ(16)、いっさい誓うなかれ(17)、という戒律のもとに包摂されているからである。

(2)不義が混じり込んだ部分は廃された
6.2 第二の下位区分は、完全に廃された部分である。なぜなら、不義が混じり込み、それ自身が不義の行いを含んでいる「目には目を、歯には歯を」の戒律は、それに反対する命令をもって救い主によって廃されたのであり、6.3 その二つの対立に関して、一方が他方を廃さなければならない。「わたしはお前たちに言う。悪人に手向かうな。しかし、もし誰かがお前を打つなら、彼にもう一方の頬を向けてやりなさい(18)。」

(3)予型論的なものは物理的に廃された
6.4 そして第三の下位区分は、その指示物が物質的なものから霊的なものへと変更させられた部分、そして超越的な表象に似せて制定されている寓意的部分である。6.5 さて、さまざまな表象や寓意は他の物事を暗示するものであり、真理がそこに存在しないという限りにおいて、表象や寓意を演じる権利があったのである。しかし、いまや真理はそこにあるのだから、その比喩的形象ではなく、真理の行いがなされなければならない。

パウロはこれらの教説の源である
6.6 彼の弟子たちはこれらの教説を知らしめ、使徒パウロもまたそうした。彼は、われわれがすでに語ってきた過ぎ越しの子羊とパン種のないパンについての節を通して、われわれにさまざまな表象からなる部分について証している。不義が混じり込んだ律法からなる部分について、彼は「さまざまな規定と戒律からなる律法を廃する(19)」と教えている。そして、劣ったものが混じり込んでいない部分については、「律法は聖なるものであり、戒律も聖であって、正しく、善なるものである(20)」と言っている。

7.1 したがってわたしは、短い論述の中で、次のことをできる限りあなたに示したのである。すなわち、律法の中には人間の法が入り込んでいるということと、神自身の律法は三つの下位区分に区別される、ということを。

3.律法の著者である神の本性

7.2 さてわれわれには、律法を作り出した神が何者なのかということについて語ることが残されている。しかしこのことについてもまた、もしあなたが注意深く耳を傾けていたのならば、すでにわたしが語ったことの中に示されていると信じている。

律法制定者は中間の神である
7.3 というのは、わたしがすでに教えたように、律法(すなわち、神自身の律法)は完全なる神自身によって与えられたのではないし、決して悪魔によって与えられたのでもないからである。そのように言うのは誤りである。そうすると、このような律法を作った者は、神や悪魔とは異なるものであるということになる。7.4 そして彼は、宇宙の創造者であり、その中に存在する事物の創造者である。なぜなら彼は他の二つの存在の性質とは異なる者であり、むしろそれらの中間の位置を占める者だからである。彼は中間存在者という用語によって記述されるにふさわしいであろう。

彼は善でも悪でもなく、ただ義である
7.5 そして、もし完全なる神がその本性にしたがって善であるならば――実に彼は善である、なぜなら、われわれの救い主が「よいかたはただ一人だけである」(すなわち彼が明らかにした父のことであるが)と証したからである――そしてさらに、もし敵対者の本性に属する律法が邪悪でも不正でもあり、不義によってかたどられているならば、これらの中間状態にある存在、善ではなく、悪や不義でもない存在とは、義と呼ばれ、正義の審判者と呼ばれるにふさわしいのである。

彼は善なる神の像によって生み出されている
7.6 そして一方で、この神は完全な神よりも劣位にあり、完全なる神の義に従属する者でなければならない。それはまさしく、彼は生み出された存在であり、永遠の存在ではないからである――というのは、「一人の永遠の父がおり、万物はここから出る(21)」からであり、より正確に言うと、万物は彼に依存しているからである――。そして他方、彼はその敵対者よりもより善く、より権威のある存在でなければならない。そして、他の二者の性質とは異なる性質と本性を持った者として生み出されなければならないのである。7.7 なぜなら、敵対者の性質とは堕落と闇だからであり、それは物質的で多くの部分に分割されているからである。それに反して、万物の永遠なる父の本性とは、不滅性と自存する光、単一性と唯一性である。そしてこの中間の神は二面的な受容能力を示しているが、彼自身はより善き者の像なのである。

C.エピローグ

どのようにして善なる神から義なる神と悪魔が生み出されえたのか?
7.8 さて今や、次のような問いに悩まされてはならない。それはすなわち、その本性において善である者が、自分自身に似ており、同一の性質を有する諸事物を生み出すとすれば、いかにしてこのような異なる性質――堕落したそれ、そして中間的なそれ――のものが出現するのだろうか、という問いである。万物の始源の単一原理であり、われわれによってその存在が認められ信奉されている、永遠かつ不滅の、善の原理から。

さらなる教示の約束
7.9 神がもしお許しになるのなら、あなたは次に、第一の原理について、そしてこれら二人の他の神々の発生について学ぶことになるだろう。もしあなたが、われわれが代々受け継いできた使徒的伝承を受ける価値があると運命づけられているならば。そしてこのことによってあなたは、われわれの救い主の教えによって、すべての信条の価値を判断する方法を学ぶことになるだろう。

結論
7.10 わが姉妹のフローラよ、わたしはこれらの事柄をあなたに手短に伝えることができた。わたしは主題を十分に取り扱ったけれども、わたしが書き記したものは簡略的なものである。将来的には、これらの教説はあなたへのもっとも大きな助けになるだろう――少なくとも、実り多い種を受け入れるよく肥えた土のように、あなたが果実を実らせるならば。

(1)プラトン『ティマイオス』28e.
(2)マタイによる福音書12:25
(3)ヨハネによる福音書1:3
(4)マタイによる福音書11:27
(5)マタイによる福音書19:8
(6)マタイによる福音書19:6
(7)マタイによる福音書15:4
(8)マタイによる福音書15:5
(9)イザヤ書29:13
(10)マタイによる福音書5:17
(11)レビ記24:14-20、マタイによる福音書5:38
(12)出エジプト記20:15
(13)マタイによる福音書15:4
(14)第一コリント5:7
(15)マタイによる福音書5:21
(16)マタイによる福音書5:27
(17)マタイによる福音書5:33
(18)マタイによる福音書5:39
(19)エペソ人への手紙2:15
(20)ローマ人への手紙7:12
(21)第一コリント8:6
[出典]Lettre à Flora, analyse, texte critique, traduction, commentaire et index grec de
Gilles Quispel, Sources chretiennes; no 24 bis,2e ed, Paris: Editions du Cerf, 1966

The Gnostic Scriptures: A New Translation With Annotations and Introductions
by Bentley Layton, The Anchor Bible Reference Library, 1987