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10.06.01 村上春樹『1Q84』について
●村上春樹の『1Q84』を三巻まで読了。丁寧で分かりやすい文体は健在で、最後まで楽しく読むことができたが、読む前に期待していた内容や水準ではなかった。以下は簡単な感想。

●この作品自体が、ジョージ・オーウェルの『1984年』の翻案として成り立っており、また、作中にヤマギシ会やオウム真理教を思わせるカルト宗教が登場 するということで、私は「全体主義」に対する鋭利な考察が含まれていることを期待したのだが、結果としてはそうなっていなかった。

●よく言われるように、村上作品の構図はかなり単純でワンパターンなもの。主人公の周りには、不条理で理解不可能な社会や世界が広がっている。そして主人公は、自分の身の回りの小さな日常を大切に守ることで、何とかそうした世界のなかを生きていこうとする。料理とか洗濯とか恋人とか。

●不条理な社会と、きめ細やかな日常。村上作品が多くの人によって支持されるのは、このような構図が現代人の感覚にフィットしているからだと思われる。特に、作中で日常生活の所作が丁寧に描かれることは、読者に対して、自分自身の生活があらためて調律されてゆくような清々しい印象をもたらす。

●しかし物語のなかで、そのような小さな日常は、ある切っ掛けで破られる。大抵は、恋人がいなくなるというパターン。そして主人公は、社会の不条理に向き 合うことを余儀なくされる。あくまで消極的かつ受動的に。村上作品で頻出する「やれやれ」というクリシェは、そのことをうまく表現している。

●村上がオウム事件に強い衝撃を受けたということはよく分かる。社会にうまくコミットできない主体が、ある一線を越えてしまうと、全体主義の運動に巻き込まれてしまうということが、そこで示されていたわけだから。その「一線」がどこにあるのか突き止めることが、村上が抱え込んだ課題だと思われる。

●『1Q84』は明らかにその課題に正面から向き合ったものだが、残念ながらそれを解くのに成功していない。『1Q84』の筆致は、例えば米本和広氏が 『洗脳の楽園』で描いたような、全体主義的カルトの持つ濃密なリアリティに届いていない。この作品は、相変わらず「全体主義未満」に留まっている。

●「全体主義未満」あるいは「全体主義の一歩手前」は、全体主義そのものではないのだから、それはそれで良いのかもしれない。しかし私は、そこに何か飽き足りないもの、そして危ういものを感じざるをえない。

●『1Q84』のなかで、全体主義の隠喩として描かれているのは、「リトル・ピープル」という存在で、不条理な社会をその背後で操作しているものと考えられる。エルサレム賞受賞の際のスピーチでそれは「システム」と呼ばれ、「システム」の支配に抗することが文学の課題だと論じられる。

●「リトル・ピープル」や「システム」が具体的に何のことのか、これまで村上は明確に論じていない。しかし、こうした不条理性の隠喩が、社会のなかの具体的存在(「ユダヤ人」や「フリーメーソン」)と短絡的に結びついたとき、その思考は全体主義を生み出すための「一線」を超えることになる。

●その意味でも村上文学は、やはり良くも悪くも「全体主義未満」。果たして「全体主義未満」は、全体主義に抵抗するための拠り所になりうるのだろうか。積極的にそれを生み出すものにはならないかもしれないが、その体制が成立したとき、「やれやれ」と言いつつ妥協してしまうような嫌な予感もする。

●要約して言えば、私は『1Q84』において、全体主義のリアリティが物語世界に組み込まれた上で、それを乗り越えるためのロジックやヒントが示されることを期待していたが、そのような作品にはなり得ていなかった。無い物ねだりと言われればそれまでなのだが。