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10.07.12 信者になる研究者たち
▼先日のツイッターで、内田樹や中沢新一などが、研究対象の人物に対して「弟子として帰依する」ことを軽々に表明するのは、研究者の態度としてどこかおかしいのではないかということを書いた。しかしよく考えれば、こうした態度は、日本の現代思想研究では往々にして見られるものである。

▼一例を挙げれば、デリダ研究者の大半はデリダ信者、レヴィナス研究者の大半はレヴィナス信者、ドゥルーズ研究者の大半はドゥルーズ信者、ハイデガー研究者の大半はハイデガー信者、ユング研究者の大半はユング信者・・・(以下、たくさん続く)であり、信者でない人を見つける方が、むしろ難しい。

▼言うまでもないことだが、こうした研究態度は多分に問題がある。まずその一つは、研究対象の業績に対して批判的な立場を取れないこと。デリダのプラトン論は本当に独自性があるのか、レヴィナスのタルムード解釈はどのような性質を持つのか、ユングの神学論はそもそも頓珍漢ではないのか、について

▼当然問題にしなければならないが、「先生はえらい」ことを前提とする研究者は、これらを批判的に問うことがない。次に二点目として、第一点とも関係するが、こうした研究者は「研究の研究」にしか携わったことがないため、生の素材に自分で立ち向かって研究する能力が育たないということである。

▼デリダ研究者はデリダの肩越しにしかプラトンを読まず、レヴィナス研究者は聖書やタルムードの理解において素人に毛が生えた程度であり、ユング研究者はキリスト教神学について無知である。彼らは本来の研究対象に直接向き合っておらず、ゆえに「先生」が言うことを批判的に捉えることができない。

▼第三の問題は、知らず知らずのうちに「個人崇拝」的で「権威主義」的な思考方法が身に付くということである。これも言わずもがなのことだが、真に権威主義的なのは、本当に権威を持った人間ではなく、他人の権威を笠に着る人間、「虎の威を借る狐」のように振る舞う人間である。

▼彼らは、自分の「先生はえらい」としきりに言い募るが、その内心では、「えらい先生に帰依している自分もえらい」と考えている。そしてしばしば、えらい先生の権威をできるだけ独占しようとして、くだらない「縄張り争い」を繰り広げる。

▼私は最近、オウムについて研究し、グルイズムの魅力の原因についても考えているのだが、自分がその末端に属しているアカデミズムの内部でも、不気味なグルイズムが相変わらず跋扈していることに気づいた。オウムについて考えることは、こうした自己反省を含むものでなければならないと思う。