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10.10.08 グノーシス研究の思い出──『王の二つの身体』の重要性
●グノーシス研究の思い出について、少し書いてみる。語るべきタイミングを逸した気もするが、今後はグノーシス主義について話す機会は減ってくると思われるので、覚え書きという意味でも。

●『グノーシス主義の思想』でも書いたように、私がグノーシス主義の研究を志したのは、その頃いくつか邦訳が発表され始めていたナグ・ハマディ文書のテキストを読み、その内容に心の底から驚いたからであった。

●きわめて壮大にして精緻なコスモロジー、そして、自己破綻を恐れずにどこまでも思考を突き詰めていこうとするその強固な意志に触れ、どうしてこのような現象が古代末期の世界に現れたのだろうかということを、素朴に疑問に思った。

●それに対して、私のなかで徐々に不満を感じるようになったのは、グノーシス研究の質の低さ、もう少し具体的に言えば、その視野の狭さである。

●ヨナスが述べたように、グノーシス主義は長いあいだ「忘れられた宗教」として存在しており、再びスポットライトが当てられるようになったのは、近代になってのことである。宗教改革が起こり、カトリックの一元的支配が崩れたこと、そしてキリスト教史や宗教史の再考が始まったことがその背景にある。

●こうしたことから、グノーシス研究に携わった多くの者は、国内外を問わず、プロテスタントの立場にある聖書学者であった。その業績には、もちろん無視しえない貴重なものがあるが、一つ注意しておくべき点がある。

●グノーシス主義を研究することになると、「正統」と「異端」をどのように区別するかということが、どうしても問題になってくる。そしてこの場合の「正統」とは主に、中世のカトリシズムへと連なる流れのことを意味する。

●プロテスタントの聖書学者は、キリスト教信仰を持つ者としてグノーシス主義に批判的であるが、実はそれ以上に、カトリシズムの伝統に対して批判的である (それが彼らの重要なアイデンティティだから)。このような立場から、彼らの歴史理解には、独特のバイアスが掛かってくる。

●彼らが得てしてやりがちなのは、独自の聖書読解から、正しいキリスト教信仰のあり方、歴史的なイエス像というものを独自に作り上げ、それによってグノーシス主義を批判するということである。

●少し大胆に言うと、プロテスタントには、カトリックの公会議のように、信仰を公的なものとするための制度が存在しない。ゆえに、プロテスタントの聖書学者が訴える「正しいキリスト教信仰」のあり方は、結局のところ、それを言っている本人がそう考えているだけ、という私的なものに陥りがちである。

●管見の限りでは、聖書学者が文献学的実証性に基づいて確言できることを越えて、イエスとはどのような人間だったか、正しい信仰とはどのようなものかということを語り始めると、たちまち私秘的で妄想的なものになってしまうことが多い。

●そして、グノーシス研究が狭隘で客観性を欠くものとなったのは、聖書学者たちが、そのような近代的で私秘的な信仰のあり方に軸足を置いて、グノーシス主義を評価するということを繰り返し行ってきたからである。

●この構図は、ヨナスやユングのように、グノーシス主義に好意的な立場を取る者でも、基本的には変わらない。彼らは、主にロマン主義の流れを汲む近代的なビジョンを過去に投影するばかりで、その実体がどのようなものであったかということを真摯に問おうとはしなかったと言わなければならない。

●それでは、どうすれば適切にグノーシス主義にアプローチすることができるのか。私が考えたのは、プロテスタンティズムやロマン主義といった近代的ビジョ ンを過去に投影することは止め、それに代わって、古代から中世へと続く大きな思想的流れを視野に入れるということである。

●『グノーシス主義の思想』では直接触れることができなかったが、私がグノーシス研究を行う上で、決定的な影響を受けた書物がある。それは、エルンスト・カントーロヴィチの『王の二つの身体──中世政治神学研究』である。

●この書物では、「キリストの身体」というキリスト教神学のドグマが、中世の王権論、さらには近代の主権論や法人論へと、どのような仕方で改変・継承されていったのかということが、精緻にして力強い筆致で描かれている。

●私は『王の二つの身体』をもう何度か読み直しているのだが、中世史に関する知識が不足していることもあり、なかなかその全体像を理解することができない。しかし私はこの書物から、カトリシズムのドグマがきわめてアクチュアルなものであり、現代社会にも根深い影響を及ぼしていることを知った。

●グノーシス主義と正統主義の争いは、つまるところ、キリストを「仮現論」で捉えるか「受肉論」で捉えるかという事柄に収斂していくのだが、この対立の意義を理解するためには、「受肉論」のドグマの重要性を理解することが必要不可欠である。

●キリスト教神学のドグマを理解するためには、教文館の『キリスト教教父著作集』や、平凡社の『中世思想原典集成』のシリーズをひたすら読むのがもっとも早道なのだが、私はそのエッセンスやアクチュアリティーを、『王の二つの身体』を読むことによって教えられた。

●それだけではない。私はこの書物から、「宗教」とは何か、「近代」とは何か、ということも教えられたように思う。あるとき、『大航海』という雑誌から寄稿を求められたので、「コルプスとは何か」という原稿を書いた。http://bit.ly/cNIocl

●現時点で私が考えているのは、詰まるところ宗教とは「コルプス」のことである、ということなのだが、まだまだ不勉強な点が多く、十分に理論化・具体化することができない。いつか「コルプスとは何か」の完全版を書くということが、私自身の目標である。

●最後に、少し挑発的な話を。近代という時代は、キリスト教の教義学的論争から生み出されたものであり、その特質を理解するためには、キリスト教教義史に関する最低限の知識が不可欠である。近代に生まれた「宗教」概念や「宗教学」の性質や役割を理解するためにも、それは不可欠。

●多くの研究者は、宗教とは何か、宗教学の役割とは、ということを安易に論じたがるが、私の見るところでは、論理的一貫性のない妄言のオンパレードに終始 している。逆に言えば、宗教に関してある程度きちんとした見識のある学者は、必ずと言って良いほど『王の二つの身体』を読んでいる。

●先にも述べたように、『王の二つの身体』はそれほど簡単に理解できるような書物ではない。しかし、宗教や近代の本質に迫りたいのであれば、この本を避けて通ることはできない、と私は思っている。