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10.10.24 島薗進『国家神道と日本人』について
▼七月に岩波新書として公刊された、島薗進『国家神道と日本人』をめぐる論争が、ネット上で注目を受けている。具体的には、まず子安宣邦が同書に対して苛烈な批判を行い、http://bit.ly/bjEcJt それに対して島薗が応答を行った。http://bit.ly/cSH6gc

▼両先生の論争は、それ自体として大変興味深いものだが、良くも悪くも、いささか感情論の応酬になっている嫌いがある。この論争は、日本の宗教学のレゾン・デートルに関わる重要なものと感じたので、私も一人の宗教学研究者として、ここで簡単なコメントを試みてみたい。

▼とはいえ私は、国家神道の問題については、専門的に語れるだけの素養をまったく持っていない。具体的には、子安先生の『国家と祭祀』、『国家神道と日本人』のベースとなった島薗先生の諸論文、その他では、葦津珍彦や新田均の諸論考について、これまで目を通したことがない。

▼ゆえに、以下のコメントは、専門的な批評と言うよりも、一般読者からの雑感として受け取っていただければ幸いである。(以下、学問上の通例に倣い、すべての敬称を略す。)

▼私も先頃『国家神道と日本人』を図書館で借り、読み進めていたのだが、ネット上で批判が散見されるように、やや不思議な読書感を味わった。文章自体はきわめて平明なのだが、なぜだか論旨がうまく読み取れず、内容が頭に入ってこないのである。この感覚は、本書全体を読み通すまで続いた。

▼率直に言って、『国家神道と日本人』は、それ自体としてかなり読みづらい書物であると言わざるを得ない。この「読みづらさ」は、何に由来するのだろうか。以下、結局は同じ事柄をめぐるものだが、三つの側面からそれを指摘してみたい。

▼(1)構成のまずさ/この書物は五つの章から成り、それぞれ「国家神道はどのような位置にあったのか?」「どのように捉えられてきたか?」「どのように生み出されたか?」「どのように広められたか?」「解体したのか?」という疑問符を連ねる仕方で構成されている。

▼一見したところ、この構成はとてもクリアに思われるが、実際に読んでみると、それぞれの章ごとに重複する記述が生じ、また、章が変わるごとに時間軸が前後するため、内容を読み取りづらかった。むしろ全体にわたってある程度通時的に記述を進めた方が、より分かりやすくなったのではないだろうか。

▼(2)先行研究批判は妥当か/同書においては、村上重良、葦津珍彦、新田均らの先行研究について触れられ、批判的に言及されるのだが、その批判が果たして妥当なのか、あまりよく分からなかった。

▼特に村上に対する批判は幾度も繰り返されており、主なものを拾ってみても、67、92、106、138、143頁に村上批判が見られる。先ほどの指摘とも関係するが、先行研究への批判が一箇所に集約して記述されず、本論全体に断片的に散在しているため、批判の中心点がうまく理解できなかった。

▼また、村上への批判について、しばしばその該当箇所が指示されていないため、村上のどの記述を批判しているのか分からないことが多かった。これは、子安も指摘しているとおり、島薗と村上が「神社神道」として名指している対象がそもそもずれている、ということもあるのではないだろうか。

▼(3)問題意識が不明瞭/国家神道という主題で私が想定していたのは、日本という国家と国民全体を、軍国主義的なファナティシズムに駆り立てたものは何だったのか、その要因が明らかにされることであった。子安の言うとおり、村上の『国家神道』は、このような強い問題意識に貫かれていた。

▼しかし、島薗の『国家神道と日本人』は、そうした意識はほぼ消えており、それに代わって、「日本人・日本文化の独自性を過度に強調する傾向があった日本人論や日本文化論を相対化し、日本の文化史・思想史や日本の宗教史についてより的確な理解に近づく」(vi頁)ための議論とされている。

▼率直に言って私は、島薗のこの問題意識が、ほとんど共有できなかった。この書物の末尾では、国家神道が今日でも生き残っているという、いささか衝撃的な結論が示されるのだが、もしそうであるとすれば、その事実をどう受け止めるべきなのかという点も、ほとんど記されていないように思われる。

▼私が『国家神道と日本人』に感じた「難点」は以上の通り。しかし、私が同書についてコメントしなければならないと感じたのは、別の理由がある。それは、この書物の登場によって、村上重良の仕事が完全に過去のものとなったと、短絡的に受け止められないだろうかと懸念されたからである。

▼私は数年前から、非常勤講師先で日本の新宗教に関する講義を担当しており、それを契機に村上の諸著作に触れるようになったのだが、その水準の高さに驚くとともに、少し安心もした。日本の宗教学者のなかで、「仕事」の名に値する業績を残した先人がいたことを、確信することができたからである。

▼村上の著作としては、『国家神道』『天皇の祭祀』『慰霊と招魂』の岩波新書三部作は必読だが、『出口王仁三郎』や『ほんみち不敬事件』といった新宗教研究も優れている。また、国家から弾圧を受けた宗教者からの聞き取りである『宗教弾圧を語る』には、いくつもの赤裸々なメッセージが記されている。

▼全体として言えば、国家神道への鋭利な批判、また、国家神道のオルタナティブになる可能性を秘めつつ、その力に屈していった諸宗教に対して、村上の抱く共感と反発が、論考に緊張感に溢れたダイナミズムを与えている。

▼村上の論考が優れているのは、切迫した問題意識を出発点に、広い視野とクリアな論理に基づく考察が行われているからであるが、それだけではない。何より村上が、近代においては、国家こそが最大にして最強の宗教なのだということ、

▼そして、国家との相関関係を常に視野に入れなければ、近代における宗教の問題はまったく理解されえないのだということを、骨の髄から感得していた点にある。このことは、どの宗教学者でも口にしそうなことであるが、実際にきちんと理解している研究者は、きわめて希であると思われる。

▼しかし、こうした理由ゆえに、私が村上の研究を全肯定しているというわけではない。かつての日本が、国家神道という宗教的権力装置として機能していたことは事実であるとしても、それを是正するために、近代化の徹底、政教分離の浸透のみでそれがなしうるかという点は、きわめて疑問だからである。

▼この点において私は、国家神道をめぐる問題がまだ終わってはいないという島薗の結論に、大きく同意する。そして、村上の業績を踏まえた上で、さらにそれを乗り越えてゆくためには、近代の諸原理、「国家主権」や「政教分離」の正当性を、根本的に再審に付す必要があると考える。

▼果たして政教分離は、村上の言うように、国家から宗教性を剥奪するためにのみ機能する原理なのだろうか。否、むしろそれは、従来存在していた宗教を弱体化させ、国家という存在を他に比類なき強力な権力へと仕立て上げるための、まさに近代特有の「宗教的ドグマ」と言うべきものではないだろうか。

▼第二次大戦は、「前近代」的原理に基づいて狂信へと突き進んだ日本が、「近代」的原理に基づいて理性的に行動したアメリカに敗れた、ということだったのだろうか。むしろそれは、日本の国家宗教が、アメリカの国家宗教にねじ伏せられた、ということだったのではないだろうか。

▼『国家神道と日本人』の「あとがき」によれば(236頁)、この書物はまだ予備的な試論という位置づけであり、島薗の本格的な国家神道論は、引き続いて公刊される予定とのことである。私はその書物が、これまでの数々の批評を受け、より優れたものとして結実することを期待している。