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11.03.20 地下鉄サリン事件から16年
▼今日は3月20日。今月11日に発生した東日本大地震から、およそ十日間が経過した。また今日は、オウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件からちょうど一六年目の日であり、私の二番目の著作『オウム真理教の精神史』の正式な刊行日でもある。

▼現在の日本は、オウム事件の総括などと言っていられない逼迫した状況を迎えているが、次の3月20日までに私なりにオウムを総括するということは、私がこの一年間目標としてきたことであり、出版社にも全面的に協力していただいたことでもあるので、ここに簡単にコメントを残しておきたい。

▼『オウム真理教の精神史』は、実際には3月10日から書店に並び始め、私はその日は肩の荷が下りた開放感を少しだけ味わっていたのだが、その翌日、あの大地震が発生した。その後、津波・原発事故・停電・品不足と続いてきた一連の状況は、誰もが知る通りである。

▼私自身はここ数年間、かつてオウムが抱いたハルマゲドン幻想に関わってきたわけだが、その取り組みが一段落したと思われた翌日に、世の中はその幻想が現実化したかのような状態に陥った。多くの人が同様と思われるが、私も現実をうまく捉えられず、覚めない悪夢を見続けているような感覚を抱いた。

▼オウムを含む「終末カルト」は、現在の社会がいずれ壊滅的な破局に直面するであろうということを声高に主張するわけだが、今回の体験によってつくづく感じさせられたのは、彼らが抱いている「根源的不安感」には、その根拠がまったくないわけではない、ということである。

▼実際に、われわれが生活している社会は、きわめて脆弱である。ひとたび災害や事故が発生すれば、普段の生活を支えているさまざまな文明の利器は、人間の生命を脅かす凶器へとその姿を変える。また、これから事態がどう推移するか分からないという不安感は、群衆を連鎖的なパニックに誘い込む。

▼終末カルトの思考の背景には、こうした現代社会の脆弱さと、それに対する不安感・恐怖感が存在する。しかしだからと言って、その思考方法が完全に現実に即しているというわけではない。彼らは現実的不安感に立脚した上で、そこからきわめて幻想的で視野狭窄的な思考を展開する。

▼オウムが辿った思考は、簡略に素描すると次のようなものであった。現代社会は脆弱で不安定なものである、ゆえに、「絶対的理想国」を建設しなければならない、そのためには、現在の社会を速やかに滅ぼさなければならない・・・。不安定か絶対的安定かという二者択一が、そこでは支配的となる。

▼また、終末カルトの思考はそもそも、現代社会の脆弱さに対する不安感や恐怖感をその出発点としているわけだが、その思考が展開されるにつれ、それは次第に壊滅的破局を待ち望むようにさえなる。破局的事態の到来は、不完全な人間社会を終わらせるための、神的意志の介入と捉えられるからである。

▼こうして「終末カルト」は、現代社会を何とかして終わらせようとする「破壊的カルト」に進化する。このような動向に対し、社会の側はカルトを危険視し、それに近づくべきでないこと、国家がそれを監視すべきであることを主張する。カルトの危険性を鑑みれば、この反応はきわめて当然かつ正当である。

▼しかしここで注意しなければならないのは、このような運動の展開とそれへの反応が繰り返される過程で、「視野狭窄的思考」が次第に広まるということである。カルトが反社会的な悪であることを強調する思考は、知らず知らずのうちに、現在の社会や国家体制が相対的に善であるという見方を生み出す。

▼またカルトの側でも、自分たちを理不尽に攻撃する社会はやはり悪なのだという考えが、いよいよ強化される。こうして、カルトと一般社会の対立は、相手が悪でわれわれは善であるという、単純にして相互に似通った二元論にはまり込んでゆく。

▼われわれが本来為すべきことは、カルトの終末思想の出発点ともなった、現代社会の弱点や歪みがどのようなところに潜んでいるのかを冷静に考察することであるが、視野狭窄的で善悪二元論的な思考の応酬が幾度も反復される結果、そのような課題は次第に忘れ去られてしまう。

▼そして宗教学者の役割は、現実と幻想を可能な限り明確に区別し、現代に特有な幻想的思考のロジックを分析することにあると思われるが、私の見る限り、現在の日本の宗教学者は、その役割を十分に担うことができていない。

▼彼らのある者は、カルトの教義に似た宗教的幻想を自ら蔓延させている。また他の者は、反カルトの側に与し、カルト撲滅のための社会運動を積極的に担おうとする。そしてその他の多くの宗教学者は、この二者択一の前で凍り付き、現実にコミットする言葉を見出せないまま狭い専門領域に逃げ込んでいる。

▼しかし宗教学者の本来の役割は、カルト的幻想を撒き散らすことでも、反カルトの側に与することでも、その狭間で凍り付くことでもないと、私は考える。必要なのは、こうした状況全体を少しでも俯瞰しうるような理論的枠組みを構築すること、そのために必要なディシプリンを整備することである。

▼この課題はとても困難であり、それに対してわれわれはあまりに非力である。しかし、オウム事件から少しでも多くを学び、それを目指した努力を今後も続けることを、ここに記しておきたい。また私はそのことが、オウム事件の全被害者に対する弔いの一つにもなりうるのではないか、と考えている。