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11.03.29 盲目的なフィールドワークの危うさ──ソコツさんの批判への応答
▼『オウム真理教の精神史』が公刊されてから、数週間が経過した。現在の日本は、東日本大震災に始まる混乱がまだまだ続いており、率直に言って私も、この状況で本書を読むことをあまりお薦めできない心境なのだが、それでも何人かの方々は、すでにご一読いただいたようである。

▼アマゾンのレビューでは、宗教学関係の多くの本を書評しているソコツさんからのレビューが寄せられた。http://amzn.to/h7JY34 まず、本書を読んでいただいたことに感謝したいが、そのなかには批判的コメントも含まれているため、それについて簡単にリプライしておきたい。

▼ここでまず氏は、「少なくとも、あの宗教は何であり、なぜあのような事件が起こってしまったのか、という問題を解明するためには、オウム教団の布教・教化や活動・犯罪の実態と、それを時に面白がり時に非難する社会との交渉を、できる限りの資料収集に基づき考えていく必要があるだろう」と述べる。

▼こうした批判が本書に向けられる理由は、私にも良く理解できる。と言うのは、『オウム真理教の精神史』は、なかなかオウムの話が出てこない、奇妙なオウム論だからである。その記述のおよそ八割が、オウム真理教の前史、具体的には、ロマン主義・全体主義・原理主義についての歴史的考察に割かれる。

▼しかしだからといって、私がオウム自体の実態把握を軽視したかと言えば、そのようなことはない。95年までほぼ十年間にわたるオウムの活動は、後の裁判記録によって幹部たちの証言が公開されていったこともあり、かなりの部分がすでに明らかになっている。

▼ソコツさんが「できる限りの資料収集」ということで何を意味しているのか分からないが、オウムを分析するのに必要十分な資料はすでに揃っており、序章で述べたように、その多くについては私自身も目を通している。また、島田裕巳氏の『オウム』では、そうした資料に基づく考察が展開されている。

▼むしろ私が主張しているのは、オウムの実態に密着するだけの考察では、「なぜオウムのような宗教がでてきたのか」という根本的な問いには答えられない、ということである。そのため私は、あえて直接的にオウムについて論じず、二〇〇年近く歴史を遡るという、思想史的アプローチを採用した。

▼そして『オウム真理教の精神史』では、そのようなアプローチに基づき、上述の問いに対する答えを提示している(特に275頁以下)。しかしその妥当性についてはコメントせず、この問いに答えるにはもっとオウムの実態を・・・と批判するのは、本書の趣旨を理解し損ねていると言わざるを得ない。

▼次の批判は以下の通り。「著者はオウム事件により躓いた宗教学の再構築を志すというが、本書が試みているようなアームチェア宗教学の視野狭窄こそが、宗教学がオウムの危うさを見抜けなかった元凶のひとつではないだろうか」。

▼この批判は、率直に申し上げて、まったく意味不明である。「アームチェア宗教学」(?)とは具体的に何を指し、それが「オウムの危うさを見抜けなかった元凶のひとつ」とは何を根拠に言っているのだろうか。

▼学問の「アームチェア」批判とは、一般的には、フィールドワークを行わない人類学者に対して向けられたものである。ソコツさんは、私がオウム真理教に対するフィールドワークを行わなかったことを「アームチェア宗教学」であると批判しているのだろうか。

▼オウム事件の実態をある程度知っていれば、こうした批判はまったく正反対であることが分かる。実は当時、オウムをフィールドワークの対象として選んだ人類学者(坂元新之輔という戸籍技術史の研究者)がいたが、彼はオウムの修行や世界観に次第に魅了され、その強力な擁護者になってしまった。

▼また当時の宗教学では、「潜り込み」と呼ばれる強引な参与観察の手法が横行しており、オウムを擁護した中沢新一や島田裕巳は、ともにその実践者であった。そして彼らは、チベット密教の修行やヤマギシ会における自らの体験を踏まえ、オウムの活動を肯定的に評価することになった。

▼(島田氏は当時の状況を、最近出演したテレビ番組で少しだけ語っているので、こちらも参照して欲しい。http://bit.ly/hkhDo8

▼むしろ、オウム事件からわれわれが汲むべき教訓は、きちんとした学問的知識や理論、ディシプリンを習得する以前に盲目的に行われる「フィールドワーク」や「潜り込み」は、特に宗教団体を対象とする場合には、きわめて危険であるということではないだろうか。

▼以上のように私には、ソコツさんの批判はどれも的を外していると思われるが、本書に対してこうした批判が提起される理由も、実はよく分かる。というのは、95年以前、宗教学者や文化人がどのような理由や仕方でオウムを評価したのかということが、今ではよく分からなくなっているからである。

▼私は、麻原彰晃と中沢新一や島田裕巳の対談を読み、その内容に強い印象を受けるとともに、オウム問題が日本の宗教学にとって根深いものであることを理解した。しかしながらこれらの資料は、現在では多くの人が読むことのできるような状況にはなっていない。

▼やはりオウム問題は、多くの宗教学者にとって、できるだけ振り返りたくない、一刻も早く忘れ去りたい対象なのだろう。今回の私のオウム論も、他の宗教学者からの応答はあまり期待できないと考えられる。その意味では、迅速にレビューを寄せてくれたソコツさんに、あらためて感謝したい。