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11.05.26 宗教学の再構築のために──心理主義から制度主義へ
▼以前から何度か公言してきたことだが、私はこれまでの宗教学のあり方について、きわめて批判的な立場を取っている。『オウム真理教の精神史』の「おわりに」でも触れたように、宗教学が本来の役割を果たすことができるようになるためには、今からでもその方針を転換しなければならないと考える。

▼とはいえ、私が考える宗教学の「方針転換」は、先行する宗教学の業績を全否定するものでも、今までまったく提言されてこなかった新奇な方法論を導入しようというものでもない。むしろ、宗教学の本流となるべき学統が見失われているため、それを再発見・再構築しようとするものである。

▼そこでここでは、現時点において私の目に宗教学の世界がどのように映っているのか、そして私はそれをどのように「再構築」したいと考えているのかを、きわめて簡略的に論じてみたいと思う(このように、私はしばしば遠慮なく連投しますので、迷惑な方はお手数ですがフォローを解除して下さい)。

▼まず、「宗教学者」と呼ばれる人間は、どのような人間なのか。それは、「宗教とは何か」という問いをもっとも主要なものとして掲げ、それに答えることに人生のかなりの時間を費やそうと決意した人間のことである。

▼このことはきわめて当然で、同語反復的であるとさえ思われるかもしれない。しかし、実際に「宗教学」の看板を掲げている研究者たちを見渡してみれば、このような定義に当てはまる人々が必ずしも多く存在している訳ではない、ということが分かる。まずそのことに注意しなければならない。

▼それでは、「宗教学」に属していながら、「宗教とは何か」を積極的に問題としない人々は、どのような研究者なのか。それは例えば、第一に、「宗教学」の枠にいながら実際には、キリスト教やイスラム教の神学、あるいは仏教の宗学などを研究している人々である。

▼これらの人々は、本来であれば、それぞれの宗教の神学科や宗学科などに属するべきなのだが、現行の制度において適切な研究機関が存在しない、あるいは、神学や宗学において求められる信仰上の立場とは別の視点から研究を行いたいなど、さまざまな理由から「宗教学」に所属している。

▼また、やや些末なことではあるが、本当は人類学や歴史学や地域研究といった隣接諸学を専攻したかったにもかかわらず、その分野において論文が通らなかった、点数が足りずに進学できなかったという副次的な理由で、やむなく宗教学に所属しているという研究者もいる(実は、結構多い)。

▼こうした研究者は、個別の宗教や、広義において宗教に関連した事柄を研究するが、積極的に「宗教とは何か」と問わない。しかし誤解のないように言えば、私はこれらの人々に、本当は宗教学者ではないのだから所属を変えるべきだ、宗教学から出て行くべきだ、と言いたいわけではまったくない。

▼宗教を研究すると言っても、実際に存在するのは諸々の個別の宗教でしかないのだから、それらを研究することは宗教学にとって基礎的かつ不可欠なものであることは言うまでもないし、また、一つの学問として自閉的・排他的になるのではなく、隣接諸学との交流は積極的に行っていくべきである。

▼しかしその上でなお、個別宗教の研究に留まること、あるいは他の学問に実質的な軸足を置いたまま「宗教に関連する事柄」を研究するということは、それだけでは厳密には「宗教学」とは呼び得ないことも銘記するべきである。

▼「宗教学」が一つの学問分野として独立し、その確固とした輪郭を維持するためには、問題の抽象度を一段上げ、「宗教とは何か」ということを問わなければならない。それでは、近代以降に成立した一つの学である宗教学は、この問いに対してどのように答えてきたのか。

▼ほとんど無数の答えが提起されてきたものの、私の見方では、それらは大きく二つの流れに分類される。宗教学内の専門用語では、それらは「本質主義」と「機能主義」と呼ばれるが、いささか分かりづらい言葉なので、ここでは「心理主義」と「制度主義」と名づけておきたい。

▼まず心理主義は、宗教を、「心のなかで経験される事柄」、すなわち、各種の宗教経験や神秘経験を中核とする、と考える。具体的には、「宇宙との合一経験」こそ宗教の本質であると考えたシュライアマハーの『宗教論』や、ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』といった著作、

▼さらには、集合的無意識に触れて自己に覚醒するという独特な経験を目指したユング心理学、「ヌミノーゼ」を重視するルドルフ・オットーの宗教現象学、「純粋経験」を中核とする京都学派的な宗教哲学などが、心理主義的宗教学に分類されうるだろう。

▼これに対して制度主義の典型例は、E・デュルケムが『宗教生活の原初形態』で示した、宗教を「聖物に関連する信念と行事の体系、教会と呼ばれる道徳的社会にすべての帰依者を結合させる信念と行事の体系」とする定義である。すなわち、社会的諸制度を、宗教的信念によって構築されるものと考える。

▼「集合的沸騰」という事象の重視に見られるように、デュルケムも決して、心理面を無視しているわけではない。しかしデュルケムは、信念や信仰が他の成員たちと共有されて社会的なものとなること、さらには、聖物=集合表象を中心として社会や共同体が結成されることに、宗教の中心的機能を見る。

▼制度主義的宗教学の明確な発端は、ロバートソン・スミスの『セム族の宗教』に認めることができ、さらにはフレーザーやデュルケム、精神分析のフロイト、レヴィ=ストロースの構造主義などによって批判的に継承されていった(これらの人々の相互関係はやや込み入っているので、その話は措く)。

▼私は『オウム真理教の精神史』32頁で、暫定的に宗教を「「虚構の人格」を中心として社会を組織すること、そしてそれによって、生死を超えた人間同士の「つながり」を確保することである」と定義しているが、ここで私は明らかに制度主義の立場を取り、その展開を企図している。

▼心理主義と制度主義を比較した場合、心理主義には明確な欠点がある。それは、心や意識に反映される独特の経験によって宗教を定義してしまうと、ある現象を「宗教」と呼びうるかどうかということが、実は客観的に判定できなくなるということである。

▼極端な例を挙げると、例えばある人物が「私はとんでもない神秘経験を体感しました。ゆえに私は最終解脱者で、最高の宗教者です」と自称してきた場合、心理主義者はこれに反論することができない。彼らにとって、宗教は個人の内面で経験されるものであるため、それを客観的に検証できないからである。

▼これは、かなり突飛で極端な話に聞こえるかもしれない。しかし、例えば中沢新一がオウム真理教を肯定的に評価することになったのは、麻原や信者たちが語る密教やヨーガの修行の体験談に対して、客観的な検証方法を持たないまま、その真実性をある程度認めざるを得なくなったからであった。

▼心理主義のこうした欠陥は、もっぱら「概念批判」を行ってきた数々の批評派によって、これまで繰り返し批判されてきた。しかし、それにもかかわらず、心理主義的宗教学者は現在も数多く存在し、それに対して、(明確な)制度主義者はほとんど見当たらないのが実情である。それは何故だろうか。

▼心理主義的宗教学者とはどういう人々かを直截に言えば、「ナイーブな良心派」と称するのが適切だろう。彼らの問題意識の根底にあるのは、現代人の精神は甚だしく荒廃しており、宗教経験やスピリチュアルな経験によって、何とかこれを「癒やす」ことはできないか、というものである。

▼ゆえに彼らは、「宗教」の厳密な定義や客観的検証などにあまりこだわり続けても意味がない、それよりは、現代人の苦悩とはどのようなものか、どうすればそれを癒やすことができるのかを考えて、どんどん実践にコミットするべきである、と主唱する。

▼少しだけ論敵を弁護しておけば、心理主義者たちのこうした問題意識は、まったく理解できないものではない。私自身もオウム論のなかで論じたように、近代社会とは、物質的にきわめて豊かになりながらも、精神的安定や健康が多分に損なわれやすいことをその特色としているからである。

▼しかし私は、宗教学者が現代人の「心の癒し」に実践的に乗り出していくということに、決して素直には賛同しない。それによって事実上、学問が維持するべき中立性は見失われ、また、学問の理論的内実は次第に空洞化することになると考えるからである。

▼むしろ、近代社会において精神的なアノミー化が進行することと、宗教が心理的次元のものに矮小化されることは、実は裏側で通底しているのではないだろうか。私が目指しているのは、制度主義的宗教学を再構築することによって、近代のこうした構造そのものを解明するということである。

▼デュルケムが国家を「近代のトーテム」と見なしたように、制度主義的宗教学は、近代社会の体制そのもの、より具体的には、宗教を個人的・心理的なものに矮小化させる政教分離の体制そのものを再審に付す潜在力を有する。遠い回り道になろうとも、宗教学はこの道を選ぶべきであると、私は考える。