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神話15 『ユダの福音書』
『チャコス写本』より
■1.序文

 本文書は、「イエスが過ぎ越の祭りを祝う三日前に、イスカリオテのユダとの対話で語った、秘密の啓示の話」である。

■2.イエスと使徒たち

 イエスは地上に現れたとき、数々の奇跡を行い、十二人の弟子たちを呼び集めた。イエスはしばしばそのままの姿では弟子たちの前には現れず、一人の子どもとして弟子たちの中にいた。

■3.聖餐に関する議論

 ある日、弟子たちは集まって座り、パンに感謝の祈りを唱える儀式(聖餐)を行っていた。これを見たイエスは、彼らのことを笑った。なぜ自分たちのことを笑うのか、と問い詰める弟子たちに対してイエスは、「私はあなたがたを笑っているのではない。あなたがたは自分たちの意志でそうしているのではなく、そうすることによって、あなたがたの神(地上の支配者)が賛美されるだろうからそうしているのだ」と答え、弟子たちの種族には自分のことが理解できないだろうと告げる。

■4.ユダだけがイエスの前に立つ

 イエスの言葉を聞いた弟子たちは怒り、心の中でイエスを罵り始めた。これを見たイエスは、「なぜこの興奮が怒りに変わったのか。あなたがたの内にいる完全なる人を取り出して、私の眼前に立たせなさい」と話す。弟子たちは口を揃え、自分たちにはそれだけの勇気があると主張したが、実際にイエスの前に立つことができたのは、イスカリオテのユダだけであった。しかしユダもまた、イエスの目を見ることができず、顔を背けた。

 ユダはイエスに、「あなたが誰か、どこから来たのか私は知っています。あなたは不死の王国バルベーローからやって来ました。私にはあなたを遣わした方の名前を口に出すだけの価値がありません」と話す。これに対してイエスは、誰か他の者がお前に取って代わろうとするため、十二使徒から離れるように促し、そうすれば王国の秘密を授けようと約束する。ユダはイエスに対し、その教えはいつ授けられるのか、また終末が訪れるのはいつなのかを問いかけるが、イエスはそれに答えないまま彼から離れ去ってしまう。

■5.イエスが使徒たちの前に再び現れる

 その翌日、イエスは再び弟子たちの前に現れた。「先生、私たちと別れてどこへ行き、何をしておられたのですか」と問う弟子たちに対し、イエスは「私はここではない、別の大いなる、聖なる種族のところへ行っていた」と答える。自分たちより大いなる、聖なる種族とは何なのかを問う弟子たちに対して、イエスは笑い、「この世に生まれてあの種族を見るものはいないだろう。星々の天使の軍勢もあの種族を支配することはなく、死を免れない生まれの人が、あの種族と交際することもない」と話す。

■6.神殿祭儀に関する議論

 弟子たちは次に、大きな家(神殿)があり、その中に祭壇が据えられ、そこに名が記されていること、またそこでは多くの罪と不法行為が侵されているにもかかわらず、イエスの名を唱えることで供犠が行われていることを、イエスに話した。これに対してイエスは、自らの名を不正に使用する祭儀を執り行う者たちや、それを信仰する者たちは実際に存在しているものの、「終わりの日に彼らは恥に落とされる」と予告する。

■7.イエスとユダの対話

 ユダはイエスに、聖なる種族がどのような実りをもたらすのかを問いかける。これに対してイエスは、これらの人々はその肉体は潰えるが、魂は死なずに天に引き上げられると答える。その一方で他の種族たちは、あたかも岩に蒔かれた種のように、実りを収穫することはできないのである。

 次にユダは、十二使徒たちに石を投げられて虐げられ、その後にとてつもなく大きな家が現れるという、自らが見た幻の内容についてイエスに問いただす。イエスはユダを「十三番目の霊」と呼び、その動揺を笑ってなだめると共に、「死を免れない生まれの者は、お前が見たあの家の中に入るに値しない。あそこは聖なる人々のために用意された場所なのだから。太陽も月も、あるいは昼も、その場所を治めることはなく、聖なる者がそこに留まり、永遠の国に聖なる天使たちと共にいるだろう」と話す。「やはり私の種子は支配者たちの掌中にあるということなのですか」と心配するユダに対して、イエスは、彼が聖なる種族のもとに引き上げられるであろうこと、しかしそれを見た他の種族たちは彼を非難の的にするであろうことを予告し、「いまだかつて何びとも目にしたことのない秘密をお前に教えよう」と話して、創世の物語を語り始める。

■8.世界の始源

 世界の始源に存在したのは、「目には見えない霊」(至高神)である。彼が住む広大な御国は、「天使も見たことがなく、いかなる心の思念によっても理解されず、いかなる名前でも呼ばれたことがない」。至高神はあるとき、「一人の天使を、私の仕え手として生じさせよ」と言い、大いなる天使、照り輝く神である「アウトゲネース」(自ら生まれた者)を出現させる。そしてアウトゲネースは、無数のアイオーンたちを創造することにより、プレーローマ界を成立させる。

■9.造物主ヤルダバオートと人間の創造

 アイオーンの一人であるエルは、「十二の天使を生じさせ、混沌と冥府を支配させよ」と言い、造物主ヤルダバオートを出現させる。その顔は炎で輝き、その姿は血で汚れていた。ヤルダバオートはもう一人の天使であるサクラスと共に、諸天の支配者となる十二の天使を生み出した。次にサクラスは、彼の天使に向かって「われわれの形に似せて人間を造ろう」と言い、アダムとエバを造り上げた。また、支配者はアダムに、「おまえは生き長らえ、子供たちを残すだろう」と告げた。

■10.人間の運命

 ユダはイエスに対して、「人間はどれほど長く生きるのでしょうか」と問いかける。イエスは、アダムや彼の種族が支配者と共に長く生きたということを認めるものの、その世界には終末が定められていることを明らかにする。諸天に支配された世界は、割り当てられた時間が終了すると、その全てがそこに生きる生き物たちと共に滅ぼされてしまうのである。

■11.対話の終わり、ユダがイエスを引き渡す

 最後にイエスはユダに対し、「お前は神の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを越える存在になるだろう」と告げる。ユダは、聖なる種族と共に永遠の王国へと引き上げられるのである。

 部屋に入って祈りを捧げるイエスを捕らえようと、律法学者たちは注意深く見張っていた。彼らはユダに近づき、「お前はここで何をしているのか、お前はイエスの弟子ではないか」と問いただす。ユダは彼らの望むままに返答し、いくらかの金を受けとって、イエスを彼らに引き渡した。


【一言解説】

昨年(2006年)その内容が公表され、一時期は大きな話題を集めた『ユダの福音書』のプロットをご紹介します。遅ればせながら、ナショナル・ジオグラフィック社公刊の邦訳を取り寄せ、一読してみましたので。翻訳に関して大きな問題があるとは感じませんでしたが、おそらくは英語のgenerationが「世代」と訳されていたのが気に懸かりました。これはギリシャ語の「ゲネア」が原語で、「種族」と訳さなければ意味が分かりにくくなってしまいます。いずれコプト語の原文も入手できると思いますので、その際には少し訂正を加えるかもしれません。

テクストの枠組みに関してはかなり明確で、イエスの弟子たちの中でイスカリオテのユダこそがイエスの教えをもっとも深く理解した者であるとされ、ユダに対してイエスが密かに明らかにした教えを記した文書、という体裁が取られています。上記のプロットで言えば、■1~■7、および■11が、ユダの卓越性や、イエスとユダの関わりを描いた物語の「外枠」部分であり、■8~■10が、イエスがユダに示した、世界の起源と終末の姿を描いた部分ということになります。

後者の部分については、残念ながら(と言うべきか)このテクストにはそれほどの目新しさはありません。いわゆる「セツ派」に分類されるグノーシス主義の神話を、きわめて簡略的に要約したものと捉えることができるでしょう。その記述が凝縮されたものであることと、テクストの保存状態が悪いこともあり、この部分はかなり読み取りが困難です。しかし、その他のセツ派のテクストの存在によって、テクストの欠損部分はおおよそ類推することが可能になっています。

前者の部分、すなわち、ユダこそがもっとも優れた使徒であったと主張される部分については、キリスト教教父によるきわめて断片的な情報が伝えられていたとはいえ、オリジナルのテクストとして示されたものは『ユダの福音書』が初めてと言って良いと思われます。グノーシス主義の教説では、「イエスの磔刑」は実際に起こったことではなく、それはそのように見えたものに過ぎなかった、なぜならキリストの本質はその霊的部分にあり、肉体は仮初めのものに過ぎないのだから、と解釈するいわゆる「仮現論」がしばしば主張されています。キリストが磔刑を受けたのは、あたかも自分が死んだかのように思わせることによって、この世の支配者たちを欺くためのものであった、と語られるわけです。このような教説に照らして考えてみると、イエスを磔刑へと引き渡したユダの行為は、必ずしも悪しきものとは捉えられないことになる。むしろユダこそがイエスの真意を理解していた数少ない人間の一人であり、使徒の中でもっとも卓越した者であった、ということになるわけですね。

全体として言えば『ユダの福音書』は、「セツ派」の創世神話や終末論、およびキリスト仮現論や可視的な諸儀礼への批判など、その他のグノーシス主義の教説と基本線を同じくしながら、それらを「ユダこそがもっとも優れた使徒であった」という枠組みに照らして語り直したものと考えることができるでしょう。この点から考えると、このテクストが大いに話題になった際に語られたような、「ユダの歴史的実像」を明らかにしたものと捉えることはほとんど不可能と言わざるを得ません。
[出典]『原典 ユダの福音書』
日経ナショナルジオグラフィック社、2006年