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10.08.13 日本の自己開発セミナーの起源
●先ほど私のHPに、二ヶ月前の『春秋』に掲載された「『トマスによる福音書』についての覚書」というエッセーのPDF版をアップしました。 http://bit.ly/cNIocl ナグ・ハマディ文書やグノーシス主義に関心のある方は、ご一読いただければ幸いです。

●少し追記。「『トマスによる福音書』についての覚書」の7ページで、福本博文氏の『心をあやつる男たち』(文春文庫)について少し触れているのだが、これは日本の「自己開発セミナー」の歴史について書いたとても面白い本なので、そういった分野に関心がある方は、ぜひ一度読んでみてほしい。

●自己開発セミナーと言うと、最近もX-JAPANのTOSHIの一件などがあり、危険でいかがわしいものというイメージがあるのではないだろうか(そのイメージはおおむね正しい)。『心をあやつる男たち』を読むと、その手法がどのようにして日本に導入され、どのような末路を辿ったかが分かる。

●本書を読んで意外に思ったのは、こちらの要約にも書いてあるように、 http://bit.ly/9AfBRI 日本において自己開発セミナーの技法を導入したのが、実は立教大学の研究所であったということ。聖職者向けの研修会の場として、最初に「感受性訓練」(ST)の施設が作られた。

●周知のように、ルター派やカルヴァン派や英国国教会といったプロテスタント派は、カトリックへの反発を足がかりにその教えを作り上げた。もちろんそれには深い歴史的理由があるのだが、カトリック的な教義や儀礼、教会組織を抜きにして、簡単に「信仰」が確立できるかと言えば、それが難しい。

●さまざまなプロテスタント宗派においては、何がキリスト教信仰の核心なのか、教会組織のあり方や、信者同士の関係はどうあるべきかということについて確固とした共通了解がなく、いまだにグラグラとした「迷走」状態が続いている。基本的には、そのように考えて良いと思う。

●大筋として言えば、自己開発セミナーとは、プロテスタントの「迷走」の産物の一つであるということ。私はクリスチャンではないので、実はキリスト教界内部のことが全然分かっていないのだが、そこでは過去のこうした産物に対する批判的考察や反省が行われているのだろうか。少し疑問に思った。