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11.09.19 柳川宗教学の呪縛から脱するために
★しばらく前のことだが、訪れた図書館でたまたま目にしたこともあり、島田裕巳の『イニシエーションとしての宗教学』(ちくまライブラリー)を読み直した。本書が出版されたのは一九九三年一月であり、オウム真理教の地下鉄サリン事件からおよそ二年前の時期に当たる。

★九三年に大学に入学した私は、出版されて間もない頃、この書物を一読した記憶があるのだが、そのときはさして強い印象は受けなかった。しかし、オウム研究を一通り終えてから読むと、この書物の内容には深く考えさせられるところがあった。

★『イニシエーションとしての宗教学』は、帯に「ぼくが宗教学者になった理由/体験に学ぶ宗教学入門」と記され、島田が宗教学者になるまでの半生記といった内容の書物なのだが、これを読むと、島田がオウムを肯定するに至った経緯が、単なる偶然ではなく、深い必然性を持っていたことが理解される。

★この本の内容を簡単に要約すると、次の通り。東大に入学した島田は、大学でさまざまな講義を受講する。興味を持てない講義が多いなか、宗教学者・柳川啓一の講義は、とりわけ魅力的なものであった。その講義は、「イニシエーション」(入信儀礼や通過儀礼の意)という概念を中心に展開された。

★柳川によれば、さまざまな社会においては、イニシエーションと呼ばれる宗教儀礼が重要な役割を果たしている。その儀礼において、若者たちはいったん社会の外部に隔離され、「聖なる試練」を課される。そしてその試練を乗り越えた後、彼らは共同体の正式な成員として、再び社会に受容されるのである。

★柳川の講義に感銘を受けた島田は、専門課程で宗教学を専攻することを決意する。当時の柳川ゼミでは、調査者であることを明かさずに宗教団体に参加して調査する手法、いわゆる「もぐり込み」が盛んに行われており、島田はその対象として、農業ユートピアの実現を目指す「山岸会」を選択する。

★山岸会の理想に強く感化された島田は、もぐり込みの調査者という立場を捨て、一時は完全にその集団の一員として生きることを決意するのだが、次第にそこでの生活に窮屈さを覚えるようになって離脱する。そして島田は、山岸会での経験に自分なりに考察を加え、一人の宗教学者となってゆくのである。

★山岸会への参画は挫折に終わったが、島田はその経験が、自分にとって貴重なものであったことを認める。大学で柳川という「師」に出会ったこと、その指導によって山岸会にもぐり込みそこから帰ってきたこと、そのすべてが、宗教学者として成人するためのイニシエーションであったと考えるのである。

★このように『イニシエーションとしての宗教学』は、一人の青年が成人に達するまでの青春譚として描かれている。しかし、私は思う。この話はどこか根本的におかしいのではないだろうか。それは何より、島田が柳川から教えられたものが何だったのかということが、実は明示的ではないという点にある。

★同書では、柳川の講義の内容について、多くの紙数が割かれている。その講義では、エリアーデ、デュルケム、レヴィ=ストロース、バタイユ、ヴァン・ジュネップ等々が提示したさまざまな宗教理論が取り上げられており、柳川が宗教学の基礎理論の構築を模索していたことが窺える。

★柳川の講義の有り様を、島田は畏敬をこめた筆致で辿っていくのだが、私の目から見ると、柳川によるさまざまな宗教理論の理解はどこかピントが外れており、それぞれの理論の中核となる部分を把握し損ねているのではないかと思えてならない。特にそれが目立つのは、柳川のデュルケム理解である。

★実は柳川は、私と同様、デュルケムの宗教論を重視している。柳川は自身の著作の各所でデュルケムの聖俗論を取り上げ(『宗教学とは何か』二〇頁・『祭りと儀礼の宗教学』四三頁等)、それに依拠する形で、宗教を「聖なるものに対する信念と慣行の体系」として定義しようとする。

★しかし、デュルケムの理論をある程度正確に理解していれば、柳川によるデュルケムの扱いが少しおかしいということに気づく。というのは、デュルケムの理論は、宗教による「社会統合の機能」を焦点に構築されており、聖俗論はあくまでその前提に過ぎないものだからである。

★端的に言えば柳川は、デュルケムによる宗教の定義の前半だけを取り込んでおり、より重要な部分、すなわち、宗教が共同体や社会を形成するためのもっとも基礎的な要因となるという部分を、ほとんど完全にオミットしている。

★そして私の見るところでは、柳川は宗教を、「聖なるものを体験すること」というように、心理主義的に理解してしまっている。その議論には、宗教を社会制度的に見る視点が欠落している。特に、近代の問題について具体的に言えば、「国家の聖性」を問う視点がまったく欠落しているのである。

★むしろ、柳川とその弟子たちは当時、宗教学の課題を次のように考えていたのではないだろうか。「近代以前のさまざまな社会においては、宗教が生命力を保っており、そこで人々は、聖性に触れる場(イニシエーション)を維持していた。青年は、宗教を体験することによって成人になったのである。

★しかし近代社会では、世俗化によって宗教の力が減退し、人々は聖性に触れることができなくなっている。ゆえに宗教学は、それがどれほど周縁的なものであっても、未だ活気を保っている宗教を社会のなかから探し出し、ゲリラ的実践によってその活力を社会に伝えるよう努めるべきである」。

★「聖性に触れよ」という柳川の扇動に促され、その弟子たちは、カルトを含むさまざまな宗教集団への「もぐり込み」を実践した。中沢新一がチベット密教の世界に飛び込み、島田裕巳が山岸会に参画したように。そして、そこから帰ってきた彼らを待ち受けていたのは、オウム真理教という存在であった。

★地下鉄サリン事件以前、島田裕巳がオウムを積極的に肯定していたことは広く知られているが、それがもっとも顕著に表れているのは、島田と麻原彰晃の対談においてである。その内容は、『自己を超えて神となれ!』という書籍のなかに、「現代における宗教の存在意義」というタイトルで収録されている。

★九一年一一月に行われたこの対談において、島田は、幸福の科学をおかしな宗教として揶揄的に論難する一方、オウムに対しては、既成の仏教が現代の物質的価値観に染め上げられるなか、オウムは現世からの離脱やそれへの抵抗を示しているという点から、肯定的な評価を与えている。

★また島田は、自分がかつて山岸会に参画した経験があることから、俗世間を捨てて共産的ユートピアを建設したいという気持ちが理解できると語り、同時に現代社会では、若者が大人になるための契機、すなわちイニシエーションが欠けているため、オウムはそれを与えようとしているのではないかと論じる。

★若者があるとき精神的な「師」に出会い、彼から「聖なる試練(イニシエーション)」を課せられ、それを乗り越えることによって大人になること──。要するに、表面的に見ればオウム真理教は、島田が柳川宗教学から学び取ったものにきわめて忠実に沿う存在だったのである。

★同じく柳川の弟子であった中沢新一は、麻原彰晃との対談において、日本社会に「聖なる狂気」をもたらすものであるとしてオウムを礼賛したが、その基本的なロジックは、島田裕巳のそれと同一であると見なければならないだろう。

★東京大学の宗教学研究室に在籍していた一員として私が思うのは、われわれにとってオウム事件を総括することとは、かつて柳川によって打ち出され、研究室を支配した特殊なエートスを反省することでなければならないということである。しかし、そうした作業に真摯に着手した人間は、まだ一人もいない。

★私自身は、一九九〇年に亡くなった柳川の謦咳に触れたことは一度もなく、柳川を中心とした宗教学研究室の雰囲気がどのようなものであったかについては、残された書物から想像するしかない。しかし、私の考える限りで、特に反省・修正するべきと思われる事柄は、以下の三点である。

★1)「師」を盲目的に崇拝しないこと。これについては以前にも少し書いたことがあるが http://t.co/a8TQK9ia 、宗教学に限らず、現在の日本のアカデミズムは、奇妙の形態の「グルイズム」が至る所に蔓延する世界である。

★多くの研究者は、自身の学問上の師や、研究対象の人物を神のように祭り上げ、しばしば「疑似カルト」の様相を呈している。マルクス教、ニーチェ教、柳川教、中沢教と、数えれば切りがない。研究者がオウムを適切に批判できなかったのは、学問の世界がすでにカルト化していたからではないだろうか。

★若者が精神的な「師」に出会い、学びの心を触発されると言えば聞こえは良いが、むしろ日本的風土において往々にして見られるのは、必要な相互批判を欠いた「師弟の癒着」の構造である。こうした構造は実は、学問の着実な発展を大きく阻害してきたのではないだろうか。

★2)「宗教」と「宗教学」を区別すること。そんなことは当然だと思われるかもしれないが、宗教学を一つの「イニシエーション」として捉える島田裕巳のみならず、中沢新一を含むその他の宗教学者たちが、両者を厳密には区別できていないことは明らかである。

★また宗教学者のなかには、現代人の荒んだ心を癒やそうと、心理学的臨床の実践やスピリチュアリティの運動を積極的に後押ししようとする者がいる。以前に触れたように http://t.co/Olkcr2Ae 、私はこうした流れは、学問の価値中立性を根本的に損なうものであると考えている。

★3)宗教学の理論を再構築する必要があること。この点に関して、実は私は、柳川啓一に多分に同情・共感するところがある。というのは、戦後の宗教学者のなかで柳川こそが、この課題にもっとも正面から立ち向かった研究者であると考えられるからである。

★しかし遺憾ながら、柳川の試みは、完全に失敗に終わったと見なければならない。長い鬱に苦しめられた末、柳川は宗教学独自の理論を練り上げることを断念し、結局のところ宗教学は、隣接諸学からの借り物の理論で間に合わせるしかないのだという、「宗教学ゲリラ宣言」に帰着したように私には見える。

★柳川がその試みの中途で挫折したということ自体を、私は責めようとは思わない。というのは、あらゆる研究者は必ず何らかの形で、道半ばにして倒れる存在だからである。むしろ問題は、その後に続く者たちが、先人の遺志を正しく引き継ぐことができたかということにある。

★しかしその弟子たちが行ったのは、重い課題に苦しむ一研究者を「師」として祭り上げ、彼が衰弱の末に発した「ゲリラ宣言」を盾に、学の規範も倫理観もかなぐり捨て、好き放題に振る舞うということであった。その結果として、宗教学者たちのオウム肯定という事態につながったのではないだろうか。

★研究者は誰しも不完全な存在であるので、その業績や人格を盲目的に崇拝することがあってはならない。しかし、学問の水準や精度を高めてゆくという「未完のプロジェクト」だけは、見失われることなく継承されなければならない。私はそれが、学問的継承のあるべき姿ではないかと考えている。