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11.10.29 中沢新一『日本の大転換』への批判
★中沢新一『日本の大転換』を、しばらく前に一読した。率直に言って、読む前から嫌な予感しかしなかったのだが、実際に読んでみると、予想をはるかに越える酷い本だった。多くの方々が書評を出しているが、この本の基本的性格があまり理解されていないようなので、ここに私の見解を提示しておきたい。

★まず結論から。『日本の大転換』は、「反ユダヤ主義の傾向を隠し持った日本文化優越論、意識革命に立脚した共産思想喧伝のパンフレット」であり、その思考形態は、ナチズム、ヤマギシ会という農業ユートピア、オウム真理教のような全体主義カルトのそれと基本的に同型であると考えられる。

★同書の基本的な論旨は、以下の通り。ベースとなる考え方は、『贈与論』で知られるマルセル・モースの弟子であるアンドレ・ヴァラニャックという文明学者の「エネルゴロジー」という理論である。中沢によれば、ヴァラニャックは、原子力までに至る人類のエネルギー開発の歴史を、七段階に分けた。

★私はヴァラニャックの著作を読んだことがないので、ここでは確言することができないのだが、中沢は自身の発想から、ヴァラニャックのエネルゴロジーに宗教史を重ね合わせている。そして、「原子力技術は一神教的な技術であり、誤解を恐れずに言えばユダヤ思想的な技術である」(38頁)と断言する。

★その例証として中沢は、モーゼ、パスカル、ユダヤ教カバリストについて触れている。これらの人々は、神との遭遇を「猛火」との接触の体験として描いているが、中沢によればそれは、一神教と原子力の親近性を物語るものである。そしてこうした「外部」的存在は、「生態圏」を脅かすことになるという。

★さらに中沢は、原子力のみならず、資本主義もまた一神教的=ユダヤ的であると論じる。「生命的な生態圏と精神的な生態圏にたいして、両者(=原子力と資本主義)は類似の外部的なふるまいをおこなうことによって、これら二種類の生態圏に深刻なリスクをもたらすのである。」(42頁)

★他方で中沢が強調するのは、「リムランド(周縁国)」としての日本の「生態圏」が備える、本来的な優美さである。ユーラシア大陸の中心部では、森林と都市を区別する分離型の文明が築かれてきたが、それに対して日本では、自然と人工を区別しない媒介型の文明が築かれてきたという。

★要するに同書で提示されているのは、「一神教=ユダヤ=分離型」と「多神教=仏教=媒介型」の対立からなる、きわめて単純な二元論である。日本は本来、後者の文化によって生態圏を維持してきたが、それが前者によって脅かされているため、ここで「大転換」しようというのが、その主張の骨子である。

★『日本の大転換』を読みながら、私の脳裏には、さまざまな人物や書物のことがよぎったが、それは第一に、ナチのイデオローグの一人であったリヒャルト・ヴァルター・ダレであった。彼のプロフィールについては、以下のページを参照。 http://t.co/iJfEMeCm

★ダレはもともと、農業を研究する一学徒であった。しかし、ドイツの大地を愛する彼の心情は、ドイツの麗しき「血と土」という観念、「生存圏」の防衛といった、ナチズムのイデオロギーに成長してゆく。もちろんその背後には、ゲルマンの純血を汚す悪しき外来種としてのユダヤ蔑視観が張り付いていた。

★ちなみにダレは、「アーネンエルベ(先祖の遺産)」と呼ばれるナチスの研究機関の所長を務めていた。彼は、アーリア=ゲルマン種族の精神的古層を探求するため、インドやチベットへの探検隊の派遣、種々の地質学調査に取り組んでいたと言われる。 http://t.co/R9lr3fn8

★中沢は『日本の大転換』において、原子力や資本主義をユダヤ的なものと見なし、これを超克・排除することによって日本の「生態圏」を守ろうと主張しているが、この考え方は、ユダヤ人を排斥して「生存圏」を防衛しようと目論んだナチズムの発想と、形式的にどこが異なるのだろうか。

★『日本の大転換』を読んで、私の脳裏をよぎったもう一つのものは、五島勉の『ノストラダムスの大予言』である。中沢は同書で、このままでは「私たちには未来がない」(14頁)と繰り返し危機意識を煽り、その解決策として、「一神教的思考から仏教的思考への転換」を提言する(66頁以下)。

★もう覚えている人も少ないだろうが、こうした論理展開は実は、『ノストラダムスの大予言』のそれとほぼ同一である。五島勉はこの著作で、1999年に世界に破局が訪れること、そしてこの破局を回避するためには、キリスト教思想から仏教思想への大きな転換が必要であることを主張した。

★五島勉の著作が、オウム真理教の終末論や革命論に与えた影響については、宮崎哲弥氏の「すべては『ノストラダムスの大予言』から始まった」(『オウムという悪夢』所収)や、拙著『オウム真理教の精神史』を参照していただきたい。こうした提言が何ら現実的でないことは、もちろん言うまでもない。

★また、『日本の大転換』には、「太陽と緑の経済」という補論が付されている。この文章で中沢は、主に経済的な観点から日本の転換策について再論するのだが、ここでも彼の思考を支配しているのは、あまりにも単純な二元論である。

★すなわち中沢によれば、経済には「第一種交換=市場の原理」と「第二種交換=贈与の原理」の二つの次元が存在しているが、これまでの経済学では、「第二種」の次元はほとんど無視されてきた。ゆえに、農林水産業のあり方を見直し、自然からの贈与の次元を回復するべきだ、と中沢は主張する。

★さらに中沢によれば、「第一種交換」「第二種交換」という二元論は、人間の心にも当てはまる(136頁以下)。第一種の心は、すべての存在を商品としての価値や数値に作りかえる資本主義的意識。これに対して、第二種の心は無意識につながっており、真の創造性はそこからしか発揮されないという。

★こうした中沢の文章を読んで、「要するに農業が大事」という以上の具体案を読み取れる人間は、ほとんどいないだろう。私が想起したのは、農業ユートピアの実現を目指して活動した「ヤマギシ会」の存在であった。 http://t.co/kkDtKuAn

★ヤマギシ会の思想もまた、中沢と同様、単純な二元論から成り立つ。ヤマギシ会では、我欲から発する競争と恐怖に満ちた世界が「夜の世界」、共存共栄に立脚する万人の幸福に満ちた理想社会が「昼の世界」と呼ばれる。この二元論は、先述の中沢のそれとほぼ重なり合うものだろう。

★ヤマギシ会は、我欲を否定すること、我を殺すことこそが、「無所有一体」の共産主義的ユートピアを実現するための方途だと考え、「特講」と呼ばれる洗脳の技法を発達させた。その内実については、米本和広『洗脳の楽園──ヤマギシ会という悲劇』を参照していただきたい。

★さらに、同様の農業ユートピア構想は、実はオウム真理教が抱いたものでもあった。それは「ロータス・ヴィレッジ構想」と呼ばれ、太陽光発電と有機農業に立脚した理想の村作りが目指されていた(詳しくは、髙山文彦『麻原彰晃の誕生』175頁参照)。

★しかし、「我欲」を否定し「贈与」を強要したこれらの共同体は、その後どうなったか。ヤマギシ会においては、個々の人権が蹂躙される全体主義的ディストピアが現出し、オウムにおいてそれは、「ハードな布施、徹底的な布施」という呼び声の下、財産収奪の暴力行為に結実した。

★中沢の『日本の大転換』に対し、多くの人々は、細かな内容は理解できないが、「脱原発」という方針や「贈与」の大切さという点では同意できる、と漠然と考えているようである。しかし、中沢の論理が、形式的にはナチズムやカルトの思考と同型であるということには、よく注意しておく必要がある。

★確かに現在、資本主義のシステムは深刻に動揺し、私もそれを脅威に感じている。また一市民としては、私も今後は脱原発の方針に転換してほしいと考えている。しかしそのことと、中沢の唱える「幻想」を現実的な解決策と考えることは、実はまったく次元の違うことであると言わなければならない。

★資本主義のグローバル化や、自然科学の発展が社会にもたらす弊害は、確かに存在する。しかし、そうした「悪しきもの」を安直かつ幻想的に超克しようとした結果、ファシズムや全体主義カルトといった「最悪のもの」を呼び込んでしまったというのが、二〇世紀の歴史ではなかっただろうか。

★しかし、念のために書き添えておけば、私は中沢の「緑の党」が、将来的にナチスやオウムのようになるのではないか、ということを心配しているわけではない。「革命のマニフェスト」を一冊735円で売り捌くような資本主義好きが、本気で革命に踏み出すとは、到底信じられない(何という茶番!)。

★むしろ私が案じるのは、「野生の科学研究所」などと関わり合うことによって、若い学生たちが「学問とは何か」ということを理解せず、貴重な時間を浪費することである。学問とは、耳に心地よい幻想に浸ることではない。複雑で過酷な現実の姿を直視し、それに対して粘り強い思考を巡らすことである。

★何らの実証性も、理論的一貫性も備えていない中沢の幻想の数々を、「学問」という名の下に教え込まれる学生の方々に対しては、本当に気の毒と言う他ない。しかし今の私には、このような空虚な運動には極力近づかないように、という警告を発することしかできない。